友達付き合いを避けたり、引きこもったりする若者が増えたのはなぜか。心療内科医の鈴木裕介さんは「日本人ストレス反応が大きく変化したからだ。尾崎豊の『15の夜』に若者が共感できなくなったことが関係している」という――。

※本稿は、鈴木裕介『心療内科医が教える本当の休み方』(アスコム)の一部を再編集したものです。

■現代人のストレス反応は「氷のモード」が多い

ストレス反応には「アッパー系」(炎のモード)と「ダウナー系」(氷のモード)の二通りがあり、それぞれ対応する神経系が異なります。

「アッパー系」は、ストレスがかかったときに、心臓の鼓動や呼吸が速くなり、血圧が上がり、不安やイライラ、焦りを感じたり、胸がドキドキ、ざわざわしたり、息が浅く速くなったり、「寝つけない」「途中で起きてしまう」といった睡眠の問題が発生したりする反応です。交感神経優位な状態と言えます。

一方、「ダウナー系」は背側迷走神経が優位な状態で、体がだるい、活力や興味がわかなくてうつっぽくなる、感情がわかない、やたら眠い、ボーっとする、記憶が曖昧になる、などの反応がそれにあたります。いずれも、血圧や心拍数、覚醒レベルなどが下がる、いわゆる「ローテンション」な反応です。

心療内科医として多くの患者さんと接している中で、気づいたことがあります。それは、「ストレスを受けたとき、いずれのモードに入るかは、時代性も関係しているのではないか」ということ、そして「現代は、氷のモードに入りやすい人が多い」ということです。

■闘う相手が明確だった昭和時代との違い

少し前までは、炎のモードに入りやすい時代でした。闘いや競争は交感神経を優位にしますから、炎のモードに入りやすい時代は、わかりやすい「敵」が存在し、闘争(もしくは逃走)するべき相手がはっきりしている時代であるともいえます。

たとえば、1960年代は学生運動が盛んで、全共闘世代を中心に、日本政府や大学を相手に闘い、変革を迫ろうという社会的な熱狂がありました。社会に「穴」が多く、「ここを変えたら、もっと世の中はよくなる」という改善点がたくさんある。だから、それを変えていこうというムーブメントに参画することに、やり甲斐や意義を深く感じ、またそうした努力によって社会が良くなっていくことを実感しやすかった社会だともいえます。

70年代80年代は、高度経済成長やバブル景気の中で、人々は家電、自家用車、マイホームなど物質的な豊かさを手に入れること、受験戦争や出世競争に勝ち抜くことに必死でした。「競争に勝つこと」によって「物質的な豊かさを手に入れること」がある程度は約束されていたから、多くの人はそこを目標にできたのではないかと思います。

豊かさを得るため、社会を良くするため、といった「目指すべき方向性」があり、人々はそこに向かって、交感神経を優位にしてフル稼働し、目標を妨げる存在と闘い、努力することができていたのです。

■無気力、引きこもりが増えた理由

ところが、高度成長期が終わり、バブルが崩壊し、努力によって物質的な豊かさが得られることが約束されなくなりました。さらには、物質的な豊かさだけではすべてが満たされて万事OKとはならないことも、徐々に明らかになってきました。

「寝食には事欠かなくなったけど、何かが足りない気がする」という現代的な苦悩が、徐々に主体になってます。そうなると、努力をして戦ったり、他人を蹴落としてまで物質的な豊かさを無理に追い求めることは、次第に敬遠されるようになりました。

費やす努力と、そこから得られる報酬(豊かさ)が釣り合わなくなってきたのです。そして、社会としても、個人としても、目指すべき方向性が見えにくくなってきました。そうなると、出世に興味を持たない人、人生の目的や優先すべきことを見失う人が増えるのは、自然の流れのように思います。

自分が何のために生きているのかわからない。

社会にも、自分の将来にも希望が持てない。

他者からの要求に流されている気がするけれど、強く逆らおうとも思えない。

「目指すべき方向性が見えなくなっている」「闘うことの意義が失われている(闘ってもムダ)」という社会全体の変化が、ただ静かにあきらめる、無気力になる、引きこもるという個人レベルでのストレス反応の変化に深く関わっているのではないか、と思うのです。

■「ムカツク」から「ムナシイ」への大きな変化

演出家の竹内敏晴氏は、その著書『思想する「からだ」』(晶文社)の中でこう述べています。

「一九九〇年代になって、子どもたちの間には、『ムカツク』を追い上げるように、『ムナシイ』ということばが広がり出しているようだ」

いつの世でも、時代に対してもっとも感受性が高いのは若者たちです。この「『ムカツク』から『ムナシイ』へ」の変化というのは、社会学的にとても重要な視点だと考えています。

心身社会研究所の津田真人氏は、80〜90年代あたりから、われわれ人間の危機に対する防衛反応が、交感神経主体から背側迷走神経系主体へとシフトしているのではないか、と指摘しています。これは、私自身も臨床的に体感しているところであり、あらゆるところで、「背側化」の徴候が見られているように思うのです。

昭和世代と令和世代のストレス反応の対比は、文学や音楽にもよくあらわれています。よく引き合いに出されるのは、チェッカーズの『ギザギザハートの子守唄』と、そのオマージュ的な歌詞を含んだAdoの『うっせぇわ』です。

「ちっちゃな頃から悪ガキで 15で不良と呼ばれたよ」「ナイフみたいにとがっては 触わるものみな 傷つけた」(『ギザギザハートの子守唄』)

このように、『ギザギザハートの子守唄』の主人公は、「ナイフ」を持っていますが、『うっせぇわ』の主人公は、「ナイフ」を持っていません。

ストレスがかかったときに、交感神経的なアグレッシブで直接的な反抗をするのではなく、表向きは優等生的に迎合している。「でもなにか足りない」という虚無感、不満はあるけど、それが何のせいだかわからなくて「困っちまう」のではないか。

■尾崎豊にピンとこない令和世代

尾崎豊というシンガーソングライターがいました。

楽曲は大人や社会へのいらだちや、支配に対する抵抗をテーマにしたものが多かったのですが、その一方で「I LOVE YOU」など愛や夢にまっすぐに生きていたいというピュアな願いとその難しさを歌った楽曲も多く、ティーンエイジャーを中心に大きな共感を集めていました。

1970~80年代は、校内暴力や非行、暴走族といった、炎のモードの防衛の時代だったのではないかと思います。

盗んだバイクで走り出す」(『15の夜』)
「行儀よくまじめなんてクソくらえと思った 夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」(『卒業』)

私もたまにカラオケで歌ったりするのですが、こういうまっすぐな反抗を歌った歌詞というのは、いまの若い世代にはピンときていないようで、「なんでそんなことするの?」という感覚です。

時代が変わり、行き場のないエネルギーを発散させるかのようなアクティブな非行・暴力・攻撃性は鳴りを潜めていき、いじめは陰湿化・オンライン化しています。直接的にぶつかり合うような摩擦が減っていくこで、対人関係はより過敏になり、傷つきを恐れるようになります。

闘ってもムダだし、怖いし、傷つきたくもないので、反抗せずに固まる・引きこもる傾向になっていく、というのは自然の流れのように思います。

■人と人が信頼関係を築くのが難しくなっている

さらにここ数年、私たちは東日本大震災原発事故パンデミックなど、自分たちの力ではどうにもならない理不尽な出来事、無力感を覚える出来事を数多く経験しています。

もしかすると、昔は、大人や社会と正面からぶつかることで何かが変わっていくかもしれないという、ある意味での純粋さや希望があったのかもしれません。

そうした希望がなくなり、ぶつかってもムダである、という「あきらめ」の蔓延(まんえん)が、背側的な氷のモードの反応を増加させているのではないか。この「あきらめ」「無力感」というのもキーワードになっていると思います。

また、人と人が信頼関係を築くのが難しくなっていることも、氷のモードに入ってしまう人を増やしているといえるかもしれません。

みなさんの中に、上司、部下、同僚、あるいは家族、パートナー、友人などと親密なコミュニケーションをとり、相手に対して信頼感を持っている人は、どれほどいらっしゃるでしょうか。

「信じていた人に裏切られた」というのは、多かれ少なかれ誰でも一度は経験することだと思いますが、特に最近、親しいコミュニケーションをとっていたつもりが、「ハラスメント」扱いされてしまったという話や、仲間内のLINEのやり取りやDMの内容などがSNSでさらされたという話をよく見聞きするようになりました。

■コミュニケーションの失敗が致命傷になる時代

SNSの時代のコミュニケーションの特徴の一つに、「罪と罰バランスの悪さ」があります。皆が生まれながらにして、コミュニケーションの達人なわけではありません。最初は誰でもコミュ障です。

だから、ちょっとイタいメールを送ってしまった、イタい行動をとってしまった、自覚していないところで誰かを傷つける言い方をしてしまった、といったコミュニケーションの失敗は、誰でも犯してしまうリスクがあると思います(私自身も相当な中二病だったので、この手の失敗をやらかしまくっていました)。

もちろん、それによって誰かを不快にさせてしまうことは良くないことですし、相手に対しての謝罪やなんらかの埋め合わせは必要でしょう。しかし、それが不特定多数にさらされることによって、まったく関係ない人からの批判・中傷までが一挙に襲いかかってきます。

それは、心のHPが根こそぎ奪われてしまうほどの恐ろしい攻撃です。一つの失敗で、予想をはるかに超える範囲から、社会的に抹殺されかねないほどのダメージを受けてしまうリスクがある。

■他人に踏み込むことが難しくなった

衆人環視の中で、コミュニケーションの失敗は致命的になりえます。そんな中で、他者を心から信頼したり、自分の本音や人間性を相手にさらすこと、他者に踏み込むことは危険なことだと感じる人が増えたり、他者に対する慢性的な不信感が広がったりするのは、当然の流れのように感じます。

コミュニケーションの高度化・難度の上昇はもはやとどまることを知りません。他者との交流そのものに不安を感じて、腰が引けてしまう、ストレスに感じてしまうという人は、ますます増えているように感じています。

さらに、コロナ禍により、ソーシャルディスタンスが重視され、他者と飲食を共にする機会が減り、テレワーク化などが進んだことも、人と人を遠ざけ、信頼関係が育まれにくくなる傾向に拍車をかけています。実際に、オンラインでのやり取りではコミュニケーションの満足感を感じにくい、という報告もあります。

■リアルな人間関係に対して回避的な人たち

心療内科医としてさまざまな患者さんと話していて感じるのは、特に若い世代に、リアルな人間関係に対して回避的な人が増えているということです。

親身になって他者の話を聴いたり、自分の話を聞いてもらったりして、「わかるよ」と深く共感し合うようなコミュニケーションに、苦手意識やしんどさを感じる。たとえば「結婚」のような、お互いが長く深くコミットしあうような関係性をなるべく避けたいと思ってしまう。

誰かに何かを頼むくらいなら、自分で全部片付けたい。

できれば、他人に借りを作りたくない。

心療内科を訪れる患者さんの中に、そうした「回避的な」コミュニケーションスタイルを持った方が多いのです。

心身にダメージが積み重なったときでも、苦痛を誰かに相談するわけでもない。

そのうち、つらいかどうかもよくわからなくなってくる。

下痢や片頭痛などの謎の体調不良があらわれたり、動けなくなったりしてしまう。

このようなパターンストレスを訴える方が、確実に増えてきています。米国の精神科医アミール・レヴァインは、こうした「回避的な」コミュニケーションスタイルをとる人が約25%いると報告しています。日本の場合の詳しいデータはありませんが、個人的な所感としてはおそらく25%よりも多く、しかも現在進行系で増えているのではないかと考えています。

■アイドルや二次元キャラのほうが安心できる

「回避的な」人は、以下のような苦悩を抱えていることが多いといえます。

・世の中では愛や絆の素晴しさを謳(うた)っているけど、自分としてはピンときておらず、どこか冷ややかになってしまう

・他人に好意を向けられると、気持ち悪いと感じてしまう。だから、アイドル二次元キャラクターなどを好きでいるほうがよっぽど安心する

・他人と親密な関係を築くことが、手放しで素晴らしいことだとはどうしても思えず、恋愛や結婚といった関係にコミットすることに抵抗感を感じてしまう

パートナーがいても、「愛情」がないわけではないが、相手が自分に向けて来る気持ちが「重い」と思ってしまい、そこまでの気持ちを返せないと感じてしまう

・他人と関わることの重圧に耐えられなくなったら、「人間関係をリセットしたい」という衝動に駆られてしまう

他人を頼ったり深い関係を築いたりすることに対して、否定的にみてしまうため、「自分は人間としてどこか欠陥があるのではないか」という疑念を持ってしまう人も少なくありません。こうした人たちに詳しく話を聞いてみると、対人関係、とりわけ親子やパートナーといった親密な関係性の中での傷つき体験があることがとても多いのです。

そのような経験の積み重ねにより、他人のことを基本的には脅威(きょうい)だと考えていて、なるべく他人との距離をコントロールしたいのです。つまり、「防衛的に」あらゆる人間関係に回避的になっているわけです。

■人間関係を避け、周囲に期待しないことで自分を守る

そして、この「回避性」は、背側迷走神経による防衛反応に深く関わっているといわれています。たとえばネグレクトのような、親密な情動的な交流が得られにくい養育環境においては、腹側迷走神経系の機能をうまく発達させることができず、背側迷走神経系による「引きこもり反応」に偏った発達を遂(と)げやすい、という指摘があります。

こうした人は、気質的には無力感を感じやすく、感情表現が少なく「ローテンション」であり、うつ病などに苦しむリスクが高くなりやすいのです。

社会や人間関係に対して、安全・安心の感覚を抱くことができず、対人関係に悲観的になり、回避的にならざるをえない。他人にも社会にも、そして自分に対しても、執着をせず、異様なまでに「あきらめがいい」。周囲に期待しないので、振り回されもしない。そのかわりに、未来に希望も見いだしにくい。

このようなスタンスも、神経学的な背景をもった氷のモードの防衛のあらわれ方の一つであり、いまの時代を象徴する「痛み」になっているのではないかと考えられます。

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鈴木 裕介(すずき・ゆうすけ
内科医・心療内科医・産業医
2008年高知大学卒。内科医として高知県内の病院に勤務後、一般社団法人高知医療再生機構にて医療広報や若手医療職のメンタルヘルス支援などに従事。2015年よりハイズ株式会社に参画、コンサルタントとして経営視点から医療現場の環境改善に従事。2018年、「セーブポイント(安心の拠点)」をコンセプトとした秋葉原内科saveクリニックを高知時代の仲間と共に開業、院長に就任。著書に『我慢して生きるほど人生は長くない』(アスコム)などがある。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/vtwinpixel


(出典 news.nicovideo.jp)

尾崎豊 > 尾崎豊の作品 > 15の夜15の夜」(じゅうごよる)は、日本シンガーソングライターである尾崎豊の楽曲。英題は「THE NIGHT」(ザ・ナイト)。 1983年12月1日にCBSソニーから1枚目シングルとしてリリースされた。作詞・作曲は尾崎が行い、プロデュースは須藤晃が担当している。…
34キロバイト (3,926 語) - 2023年7月26日 (水) 04:57



(出典 www.sonymusic.co.jp)


尾崎豊の「15の夜」は、若者の内なる葛藤や不安を代弁していますが、「盗んだバイクで走り出す」というフレーズには、社会のルールを無視して自由に生きることへの羨望や欲求が込められています。現代の若者たちにとっては、より現実的な方法で自己表現や自由を追求する必要があるのかもしれません。

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